NAKAMOTO Keisuke "Daily"

日記的な。公的な研究テーマは官僚制、私的な研究テーマは汝南袁氏(轅濤塗から袁世凱まで)。歴史学と政治学・経済学の境界を彷徨うための準備期間中です。ここで書いてる小ネタは、十年前の卒論の際の小ネタメイン。

後漢研究とプロソフォグラフィーに関する覚え書き

後漢研究とプロソフォグラフィーに関する覚え書き

 後漢研究において、特に戦後に顕著であるが、プロソフォグラフィー的方法論をとった研究が行われた。かかる手法が援用されるに至る前段階として、川勝義雄による、後漢魏初の門生故吏であったり名士*1のグルーピングの影響があったといえる。氏の研究は、ある意味で、その後の後漢研究そのもののあり方を規定したと断言してもよいほどである。あるいは氏によって後漢研究がスタートしたといってもよく、とすれば、「後漢研究史」それ自体が、氏の規定したものとであったともいえる。

後漢研究、より正確に表現すれば、後漢政治(社会)史研究であるが、かかる研究史にとって一つの契機となったのが1995年であることについては、おおむね異論は生じ得ないであろう。周知の通り、政治(社会)史研究において「一つの到達点」を迎えた時期でもある。また言い換えれば、肯定的であれ否定的であれ、川勝の設定した枠組みを超越するものではなかったし、寧ろ、氏の設定した土俵で、あるいは氏の定めた「ルール」にのとった「ゲーム」が繰り広げられたのが、戦後より20世紀末に至る時期であったとも言える*2。特に川勝に対して批判的な立場において顕著にみられるが、後漢末魏初の門生故吏・名士のグルーピングという方法は、より徹底して行われるようになった。結果、プロソフォグラフィー的方法論に帰結することになったのであろう。

 かかる方法論をとる立場にとって幸いだったことに、『後漢書』や『三國志』、あるいは当該時期の佚文史料などには、交友関係が残っていることが多かったのである。また中国古代中世史、あるいは「唐以前」においては、地域と大姓・著姓の研究が一定程度有効で*3、こういった事情もあって、ある特定の人物を調査するにあたって、出身地、宗族、子孫、婚姻関係、門生故吏関係、交際関係のデータとしての蓄積が行われるようになった。これは、本来的にプロソフォグラフィー的方法論を可能にする史料的土壌とはかけ離れたものではあったが、そもそもの出発点が先に述べた研究史的状況を背景にしていることなどを考えると、やむをえざるところであったかもしれない。あるいは後漢は、墓碑の建立が盛行する時期ということもあって、少なからず、特定の人物とその一族に関する情報は少なからず残っている場合がある。この点についていえば、かかる方法論を可能にする史料的土壌といえなくもない。しかし石刻史料を加えたとしても、研究史のたどった過程で、「正しい」と思えても、方法論としては問題が残ることにかわりはないと評価せざるを得ないのである。その最大の理由は、伝世文献であれ石刻史料であれ、時期、地域、内容それぞれに偏りがあることである。また、そもそもいくつかの系統・性格の異なる史料から必要な部分を収集することになる。この危険性について顧慮されていないことである。

 仮に『後漢書』なら『後漢書』、『三國志』なら『三國志』、史料を限定してデータを蓄積してみたとしよう。その場合であっても、それぞれの史料の元になった史料が複数あり、かつ取捨選択が、范瞱や陳壽のみならず、それ以前の段階で何度か、時には恣意的にも行われているから、客観的なデータとはなりえない。AとBとの間に何らかの関係性を認めうる史料があったとしても、「たまたま」残ったからわかったに過ぎない、ということも多い。したがってこれらのデータの蓄積それ自体は、無意味なことであるとまでは言えないが、その扱いには、相当注意が必要になるのである。

 それではどういった場合に、これらの史料、あるいはデータを有効活用できるのだろうか。それは、これらの問題点の逆を考えればいい。すなわち、伝世文献であれ石刻史料であれ、時期、地域、内容それぞれの偏り、そして史料の系統・性格を考慮することである。勿論、それは大変な困難をともなうのではあるが。

*1:氏の表現にしたがうにすぎない。勿論、ここでいう名士とは史料用語としての名士である。

*2:川勝の設定した枠組みという点で言えば、2000年代前半頃までその影響下にあると考えられる研究が確認できる。

*3:これも一つの背景として設定することができる。かかる研究は、先の表現を使えば、「西嶋定生によって規定された」ということになるであろうか。

後漢官僚の一形態

後漢官僚の一形態

 後漢末、外任にあった官僚の中には、『後漢書』もしくは『三國志』、あるいはその両方に立傳されながらも、官歴のあやふやな者も多い。その理由はいくつか想定できるが、最大の理由は建安年間(おそらく最初期)に、許の獻帝もしくは荊州劉表と関係が薄かったもしくは、政治的に対立していたか否かによる。特に許における『東觀漢記』最後の修史事業において、私的な情報を提出できなかったことが大きいように思われる。

 こういった官歴があやふやな者の一人に陶謙がいる。とはいっても、ひどい例に比べれば、まだ恵まれた方であり、彼の最終的な地位及び本籍地の関係で、『東觀漢記』系統の史料とは別の形で、史料が残ることとなった。

 彼の経歴は後漢官僚の一端を見る上で興味深い。さっそく彼の官歴を確認してみよう。まずは史料を整理することからはじめよう。基本的史料となる『魏志』卷八「陶謙傳」においては、

「少好學、爲諸生。仕州邵、舉茂才、除盧令、遷幽州剌史、徵拜議郎。」

とみえている。「少くして・・・」「諸生」すなわち太學生もしくは私塾の門生となったという記事よりはじまる。その後「茂才に舉げられ、盧令に除せられ」たという。周知の通り、茂才に察舉された場合、ただちに千石の縣令にあてられる。したがって年齢的には概ね三十前後(三十以上)の者がこれに該当することとなる。

 『呉書』にしたがえば、彼の父の最終官歴は餘姚長であり、「少くして孤」というように、はやくに父を喪っている。同じく『呉書』に従えば同県の甘氏と通婚していたとはいえ、果たして州郡の官吏をつとめたという経歴のみで、茂才に察舉されうる政治的基盤を在地社会において有していたかというと、この点甚だ疑問ではある。

 一方、『三國志』や『後漢書』に引かれる『呉書』では、

「少察孝廉、拜尚書郎、除舒令。」

としている。これはこれで信頼できそうではあるが、例えば「少くして孝廉に察せらる」というのは明らかにおかしい。『呉書』は特に制度的記述において、いくつかの問題点が散見されることから、韋昭はおそらくこの手の知識に乏しかったのであろうか、あるいは呉の制度そのままに表現してしまったのか、その点詳らかにしえないが、こういった点をみると信頼性が揺らぐ。

孝廉に「少くして」察舉されたなどという部分はともかく、その後の経歴について言えば、『三國志』のそれよりは、ある程度現実味がある。後漢初期に待遇が改善されたとはいえ、「勞多く功少な」いと認識されていた尚書郎についているわけであるし、その後、縣令に任命されていることからもわかるように、おそらくは「羌胡の事を治」すことが職掌であった客曹郎と考えられる。すなわち、客曹郎に対する恩典、「劇もて遷せられしものは二千石 或は刺史、其の公もて遷せられしものは縣令と爲す」の公(=功滿=任期満了)による遷(=昇進人事)に該当する人事であったと思われる。この点、その後の官歴、幽州刺史であったり、関西の反乱に際しての人選をみるに、もっとも適当な官歴であったと考えられる。

実の所、この両史料に不備があるようで、『呉書』に引かれる張昭等の哀辭に「舒及び盧に令たり」とあることから、正確には、尚書郎として任期をつとめて舒令に遷せられ、一度官を辞し*1、その後、茂才に察舉され盧令となったと考えられる。そうすれば、茂才の察舉年齢としても、あるいは官歴の上でも妥当であるといえる。陶謙の没年から察するに、尚書郎であった頃は、はやくとも桓帝最末期から靈帝初、したがって茂才に察舉された年齢も、三十代前後というよりは、楊震の例の如く、四十前後であったのではないかとも思われる。

 ところで刺史人事において、この当時もっとも多かったパターンが、公府に辟召され公府掾となり、高第に舉げられて侍御史となり、そして刺史となるものであった。これを先例にならって「エリート・コース」とするならば、陶謙のそれはどのように位置づけることができるだろうか。結論からいえば、「準エリート・コース」ともいうべきものであったということである。例えれば公府に辟召され、掾ではなく、屬となるが如きものであったともいえよう。

 彼の場合、後の官歴に対して、決定的な意味を持つのは尚書郎、先に推測したように客曹郎への就任であったと思われる。桓・靈帝期とはいえ、なお六朝期の尚書郎などとは比べものにはならない官であり、一部に尚書郎より三公にまで至った者もいるが、彼らは当然、客曹郎などではないし、尚書郎より左右丞、尚書・・・と昇進していっていおり、これらの例とは大いに異なる。

 ただし、また一方で、和帝期以降、特に安帝期より顕在化する邊境問題に対応すべく、邊境の司令官人事において、その性質的に大きな変化もあったわけで、重要度の高いポストでもあった。当然、尚書郎には、公文書を作成するという「技術」が必要となり、その試験を通っているわけであるし、職務上、自然、邊境問題に対しては一定の知識を蓄積することができるわけである。その経験から、邊境の長官等に轉遷するわけであるが、必ずしも現場のたたき上げとはいえず、まさしく「準エリート」ともいうべきものであって、かかる層も、巨大な官僚制度が構築された古代国家においては、当然存在していたわけである。

*1:辞した理由が『呉書』にあるが如き理由であるのか、あるいは客曹郎

汝南袁氏と弘農楊氏

汝南袁氏と弘農楊氏

・四世三公

 周知の通り、汝南袁氏と弘農楊氏とは「四世三公」など称される如く、四代にわたって宰相を輩出した家として知られる。一方で、この言葉だけが一人歩きして、実態とかけ離れた形での理解がなされてもきた。「四世三公」という言葉自体が、その家柄の高貴なることの代名詞の如く、その時々によって都合良く使用されてきたことも事実であろうし、往時の議論においては、魏晉社会に先行する「貴族」として扱われることさえあった。確かに、後漢史上、四世代にわたって三公を輩出したのは、この二家のみである。後漢に限らず、漢代史という括りにおいても、その結果的な特殊性は認めなければならない。
 一方で後漢においては「累世三公」と表現される家も多い。用例などから判断するに、「二代以上、三公を輩出した家」がこれに該当する。なお一人でも、三公を輩出した時点で、その繋累は「公族」との語が使用される。この「累世三公」のほとんどは二代に留まるのではあるが、こういった家はそれなりに多く、中でも二代連続して三公を輩出するケースが多い。寧ろ後の南朝の展開などをみるに、当人にとって、祖父・父あるいは祖父や父の兄弟等が高官にあることは人事制度上有利に働くケースが多いから、二代連続するケース、三公となった者の孫の世代で、また三公を輩出するというケースなどが多くなってしまう*1後漢は後世に比して多くの人事ルートがあったから、この点、より顕著であったと考えられる。
 さて、いわゆる「四世三公」と「累世三公」*2、本質的な差は存在するのであろうか。結論から言えば、両者の間に本質的な差は認められない。あるいは本質的な差が認められるようになるのは、靈帝期以降の展開においてであったろうが、靈帝死後の混乱によって、後漢は制度的に非常の状態に至ることになってしまった。汝南袁氏と弘農楊氏としか例がないから、これらで確認してみよう*3
 汝南袁氏は五世代に渡り六人の上公・三公を輩出している。すでに指摘した通り「四世居三公」などの評価は、靈帝期、袁紹袁術の世代において言われたものであって、弘農楊氏の楊彪がそうであるように、獻帝期の事例も加えるならば、五世三公の袁氏、四世三公の楊氏、三世三公の許氏とするのが正しい。もし獻帝期の事例を除外すれば、四世三公の袁氏、三世三公の楊氏と許氏とすべきであろう*4
 汝南袁氏は、最初に三公となった袁安以降、袁敞、袁湯、袁逢・袁隗、袁紹と上公・三公を輩出している。袁安の第三子が袁敞、第二子の子が袁湯、袁湯の子の袁逢・袁隗、袁逢の孫の袁紹という関係になる。袁氏の家の問題については、すでに触れたことがあるので繰り返さない。弘農楊氏は、最初に三公となった楊震以降、楊秉、楊賜、楊彪と三公を輩出した。楊震の第三子が楊秉、楊秉以下はみなその長子である。以下、比較の形で袁氏と楊氏の違いについて触れておこう。

・袁氏と楊氏

 まず最も基本的な問題として、史料的な差異があげられる。周知の通り、汝南袁氏は後漢と共に衰退するが、弘農楊氏はその後も名門として命脈を保った。汝南袁氏が後漢と共に衰退したこと、あるいは曹操と対立したこともあって、魏の段階で、袁氏に対する史料的な操作が行われたし、楊氏の場合、現行、范瞱の『後漢書』以前の『後漢書』が編纂された段階においては、政権に非常に近い存在であったこともあって、袁氏とは逆の意味で史料的な操作が行われている。
 続いて世代について確認してみよう。袁氏が楊氏に比して一世代ほど先に三公を輩出している。袁敞と楊震、袁湯と楊秉、袁逢・袁隗と楊賜、袁紹楊彪とが、ほぼ同世代にあたる*5
 周知の通り、楊彪と袁逢の娘とは婚姻関係にある。桓帝期にはすでに婚姻関係が結ばれており、楊秉は存命ではあったが、袁湯はすでになくなっていたものと思われる。袁氏で言えば、袁安が外戚竇氏との一連の政争の中途で亡くなっているし、袁敞は安帝期に「鄧氏の旨」を失ったことで自殺している。また楊震も安帝末に政治的失脚の果てに自殺している。袁安の場合、死の直後に竇氏が失脚し、その後、一種の袁安神話ともいうべきものが形成されたことによって、その子らの世代は恩恵を受けることができたのではあるが、袁湯の世代、楊秉の世代については、必ずしもそうではなかったし、両名共にかなり高齢で三公に就任していることが物語るように、安帝期から順帝期を挟んで桓帝期にいたる間を乗り越えた事がポイントになる。他の累世三公家をみても、安帝・順帝期以前に二代連続して三公を輩出した「累世三公」家と、以降に二代連続して三公を輩出した「累世三公」家とに、おおまかに分類することができる。この事は、安帝期から順帝期にかけての政治的流動性を示すものでもあろう。ともに安帝期に、政権中枢から、自殺という形で閉め出された両家ではあったが、これより桓帝期にいたるまでの、政治的に多難な時期の乗り越え方は、まったく正反対ではあったといってよい。袁氏の場合、梁氏と密着することによって、楊氏の場合は、梁氏と距離を置くことによって、桓帝期に三公となっているのである。袁湯と楊秉とでは、年齢的に20歳前後の開きがあり、したがって袁湯は桓帝初の三公であるし、楊秉は桓帝末の三公であった。梁氏との距離という点でいえば、この年齢差がダイレクトに影響しているとみてよい。というのも、袁湯の場合、政治的に、あるいは私的に結合する対象は梁商となったのであって、彼との関係の延長線上に梁冀との関係があった。一方、楊秉の場合、当初からの結合・関係構築の相手が梁冀であったから、楊秉・楊賜ともに、本格的な官界への進出は、彼の失脚を待たねばならなかった。楊秉については、梁冀への権力集中が進む過程で、彼と距離をおいたことががプラスに働いたのであろう。
 ところで、「桓帝後」に注目してみた場合、プライベートな関係において最も重視すべきは、外戚とのそれではなく、当然、皇帝とのそれになろう。楊秉は桓帝に対して、楊賜は靈帝に対して、それぞれ侍講し、二代続けて「帝師」の任をつとめた。後漢において皇帝が学んだのは「歐陽尚書」であり、中でも沛國桓氏の伝えるそれであった。したがって沛國桓氏は「累世帝師」などと称されるわけであるが、その桓氏より学を受けられた楊氏が、そのお株を奪って、二代続けて帝師となったわけである。この点、袁氏も同様に、桓帝と靈帝に対してプライベートな関係があった。袁湯は桓帝に対して、袁逢は靈帝に対して定策の功があったのである。主としてこの二つの要素によって、政治的に多難な時期を乗り越え得たこと、また皇帝との個人的な繋がりが、直接官界における位置を左右した靈帝期に、皇帝に対して私恩があったことが、靈帝期の異常なまでの二家の隆盛につながった。

 

※ この記事は未完成です。今日から明日にかけて、徐々に更新されるものと思われます。

 

*1:この点においては、すでに後漢より、魏晉南北朝の官僚制度上の諸問題の萌芽がみられると理解すべきであろう。

*2:あるいは「公族」家との間に。

*3:ただし汝南許氏は三世代にわたって四人の三公を輩出している。

*4:本来は、汝南許氏も加えて分析すべきでろうが、汝南許氏の三公就任者で、現行『後漢書』に立傳されているものがなく、わずかに『後漢紀』等に附傳が残る程度であるから、史料的に分析対象とすることは難しい。

*5:個々のケースによって異なるが20歳程度の年齢差があると思われるケースもある。