NAKAMOTO Keisuke "Daily"

日記的な。公的な研究テーマは官僚制、私的な研究テーマは汝南袁氏(轅濤塗から袁世凱まで)。歴史学と政治学・経済学の境界を彷徨うための準備期間中です。ここで書いてる小ネタは、十年前の卒論の際の小ネタメイン。

定策の功

定策の功

 定策の功とは皇太子が立てられていない間に皇帝が崩御した際、その後継者を選定するにあたっての「功」である。あるいは近世などでは、基本的に皇太子が立てられた時点で、皇帝権力の弱体化を意味するため、死の直前まで立てられず、皇帝が死の直前に皇太子を選定した際の「功」などがそれである。
 汝南袁氏は、確認できるだけで四人、爵土を得たものがいる。一人は安國亭侯の袁湯、都郷侯の袁隗、邟鄉侯の袁紹、陽翟侯の袁術である。この内、袁湯の爵土は袁逢、袁基と継承されている。袁氏で初めて封爵されたのが、袁安から数えて三代目、袁湯である。彼は、本初元年、質帝の死にともなって後継者を選定する際、李固等の推す劉蒜ではなく、梁冀等と劉志(後の桓帝)を推したことで爵土を得た。この際、集議が開かれたようだが、当初、太尉李固、司徒胡廣、司空趙戒、大司農杜喬等は劉蒜を推していた。梁冀の恫喝によって胡廣・趙戒が劉志を立てる側に与し、結果的に劉志が即位した。李固は策免され、胡廣・趙戒がスライドし、袁湯が司空となったのである。この三名は、この定策の功によって封爵された。当初、劉蒜を推した側に袁湯の名が見えないこと、時の太常ではなく太僕であった袁湯が後任となっていることなどを考え合わせると、あるいは、袁湯は当初から劉蒜を推していたのかもしれない。
 その後、桓帝が亡くなった際、子がなかったことで、またも後継を立てねばならなくなったのだが、この時、

  靈帝立、逢以太僕豫議、增封三百戸。(『後漢書』列傳四五「袁安傳附袁逢傳」)

と見えるように、「太僕を以て議に豫」った。この時期、太尉は周景、司徒は胡廣、司空は宣酆であったが、周景は安陽郷侯、胡廣は舊土を復され、宣酆は東陽亭侯に封ぜられた。したがって胡廣は桓帝と靈帝と、二代続けて定策の功が、また袁氏は袁湯・袁逢と二代続けて各時期の皇帝に対して定策の功があったことになる。ところで靈帝を立てたのは竇武等である。袁逢はこの後、一度、太僕の位を辞している。これは陳蕃に連坐したものなのだろうか?この辺りの事情は詳らかにしえないが、袁逢・袁隗と画一的なイメージで捉えられてきた二人の違いを感じることができるのではないだろうか。