NAKAMOTO Keisuke "Daily"

日記的な。公的な研究テーマは官僚制、私的な研究テーマは汝南袁氏(轅濤塗から袁世凱まで)。歴史学と政治学・経済学の境界を彷徨うための準備期間中です。ここで書いてる小ネタは、十年前の卒論の際の小ネタメイン。

汝南袁氏と弘農楊氏

汝南袁氏と弘農楊氏

・四世三公

 周知の通り、汝南袁氏と弘農楊氏とは「四世三公」など称される如く、四代にわたって宰相を輩出した家として知られる。一方で、この言葉だけが一人歩きして、実態とかけ離れた形での理解がなされてもきた。「四世三公」という言葉自体が、その家柄の高貴なることの代名詞の如く、その時々によって都合良く使用されてきたことも事実であろうし、往時の議論においては、魏晉社会に先行する「貴族」として扱われることさえあった。確かに、後漢史上、四世代にわたって三公を輩出したのは、この二家のみである。後漢に限らず、漢代史という括りにおいても、その結果的な特殊性は認めなければならない。
 一方で後漢においては「累世三公」と表現される家も多い。用例などから判断するに、「二代以上、三公を輩出した家」がこれに該当する。なお一人でも、三公を輩出した時点で、その繋累は「公族」との語が使用される。この「累世三公」のほとんどは二代に留まるのではあるが、こういった家はそれなりに多く、中でも二代連続して三公を輩出するケースが多い。寧ろ後の南朝の展開などをみるに、当人にとって、祖父・父あるいは祖父や父の兄弟等が高官にあることは人事制度上有利に働くケースが多いから、二代連続するケース、三公となった者の孫の世代で、また三公を輩出するというケースなどが多くなってしまう*1後漢は後世に比して多くの人事ルートがあったから、この点、より顕著であったと考えられる。
 さて、いわゆる「四世三公」と「累世三公」*2、本質的な差は存在するのであろうか。結論から言えば、両者の間に本質的な差は認められない。あるいは本質的な差が認められるようになるのは、靈帝期以降の展開においてであったろうが、靈帝死後の混乱によって、後漢は制度的に非常の状態に至ることになってしまった。汝南袁氏と弘農楊氏としか例がないから、これらで確認してみよう*3
 汝南袁氏は五世代に渡り六人の上公・三公を輩出している。すでに指摘した通り「四世居三公」などの評価は、靈帝期、袁紹袁術の世代において言われたものであって、弘農楊氏の楊彪がそうであるように、獻帝期の事例も加えるならば、五世三公の袁氏、四世三公の楊氏、三世三公の許氏とするのが正しい。もし獻帝期の事例を除外すれば、四世三公の袁氏、三世三公の楊氏と許氏とすべきであろう*4
 汝南袁氏は、最初に三公となった袁安以降、袁敞、袁湯、袁逢・袁隗、袁紹と上公・三公を輩出している。袁安の第三子が袁敞、第二子の子が袁湯、袁湯の子の袁逢・袁隗、袁逢の孫の袁紹という関係になる。袁氏の家の問題については、すでに触れたことがあるので繰り返さない。弘農楊氏は、最初に三公となった楊震以降、楊秉、楊賜、楊彪と三公を輩出した。楊震の第三子が楊秉、楊秉以下はみなその長子である。以下、比較の形で袁氏と楊氏の違いについて触れておこう。

・袁氏と楊氏

 まず最も基本的な問題として、史料的な差異があげられる。周知の通り、汝南袁氏は後漢と共に衰退するが、弘農楊氏はその後も名門として命脈を保った。汝南袁氏が後漢と共に衰退したこと、あるいは曹操と対立したこともあって、魏の段階で、袁氏に対する史料的な操作が行われたし、楊氏の場合、現行、范瞱の『後漢書』以前の『後漢書』が編纂された段階においては、政権に非常に近い存在であったこともあって、袁氏とは逆の意味で史料的な操作が行われている。
 続いて世代について確認してみよう。袁氏が楊氏に比して一世代ほど先に三公を輩出している。袁敞と楊震、袁湯と楊秉、袁逢・袁隗と楊賜、袁紹楊彪とが、ほぼ同世代にあたる*5
 周知の通り、楊彪と袁逢の娘とは婚姻関係にある。桓帝期にはすでに婚姻関係が結ばれており、楊秉は存命ではあったが、袁湯はすでになくなっていたものと思われる。袁氏で言えば、袁安が外戚竇氏との一連の政争の中途で亡くなっているし、袁敞は安帝期に「鄧氏の旨」を失ったことで自殺している。また楊震も安帝末に政治的失脚の果てに自殺している。袁安の場合、死の直後に竇氏が失脚し、その後、一種の袁安神話ともいうべきものが形成されたことによって、その子らの世代は恩恵を受けることができたのではあるが、袁湯の世代、楊秉の世代については、必ずしもそうではなかったし、両名共にかなり高齢で三公に就任していることが物語るように、安帝期から順帝期を挟んで桓帝期にいたる間を乗り越えた事がポイントになる。他の累世三公家をみても、安帝・順帝期以前に二代連続して三公を輩出した「累世三公」家と、以降に二代連続して三公を輩出した「累世三公」家とに、おおまかに分類することができる。この事は、安帝期から順帝期にかけての政治的流動性を示すものでもあろう。ともに安帝期に、政権中枢から、自殺という形で閉め出された両家ではあったが、これより桓帝期にいたるまでの、政治的に多難な時期の乗り越え方は、まったく正反対ではあったといってよい。袁氏の場合、梁氏と密着することによって、楊氏の場合は、梁氏と距離を置くことによって、桓帝期に三公となっているのである。袁湯と楊秉とでは、年齢的に20歳前後の開きがあり、したがって袁湯は桓帝初の三公であるし、楊秉は桓帝末の三公であった。梁氏との距離という点でいえば、この年齢差がダイレクトに影響しているとみてよい。というのも、袁湯の場合、政治的に、あるいは私的に結合する対象は梁商となったのであって、彼との関係の延長線上に梁冀との関係があった。一方、楊秉の場合、当初からの結合・関係構築の相手が梁冀であったから、楊秉・楊賜ともに、本格的な官界への進出は、彼の失脚を待たねばならなかった。楊秉については、梁冀への権力集中が進む過程で、彼と距離をおいたことががプラスに働いたのであろう。
 ところで、「桓帝後」に注目してみた場合、プライベートな関係において最も重視すべきは、外戚とのそれではなく、当然、皇帝とのそれになろう。楊秉は桓帝に対して、楊賜は靈帝に対して、それぞれ侍講し、二代続けて「帝師」の任をつとめた。後漢において皇帝が学んだのは「歐陽尚書」であり、中でも沛國桓氏の伝えるそれであった。したがって沛國桓氏は「累世帝師」などと称されるわけであるが、その桓氏より学を受けられた楊氏が、そのお株を奪って、二代続けて帝師となったわけである。この点、袁氏も同様に、桓帝と靈帝に対してプライベートな関係があった。袁湯は桓帝に対して、袁逢は靈帝に対して定策の功があったのである。主としてこの二つの要素によって、政治的に多難な時期を乗り越え得たこと、また皇帝との個人的な繋がりが、直接官界における位置を左右した靈帝期に、皇帝に対して私恩があったことが、靈帝期の異常なまでの二家の隆盛につながった。

 

※ この記事は未完成です。今日から明日にかけて、徐々に更新されるものと思われます。

 

*1:この点においては、すでに後漢より、魏晉南北朝の官僚制度上の諸問題の萌芽がみられると理解すべきであろう。

*2:あるいは「公族」家との間に。

*3:ただし汝南許氏は三世代にわたって四人の三公を輩出している。

*4:本来は、汝南許氏も加えて分析すべきでろうが、汝南許氏の三公就任者で、現行『後漢書』に立傳されているものがなく、わずかに『後漢紀』等に附傳が残る程度であるから、史料的に分析対象とすることは難しい。

*5:個々のケースによって異なるが20歳程度の年齢差があると思われるケースもある。