NAKAMOTO Keisuke "Daily"

日記的な。公的な研究テーマは官僚制、私的な研究テーマは汝南袁氏(轅濤塗から袁世凱まで)。歴史学と政治学・経済学の境界を彷徨うための準備期間中です。ここで書いてる小ネタは、十年前の卒論の際の小ネタメイン。

參録尚書事

參録尚書

 「録尚書事」、後漢の官制史において、特に研究史の上で、この四字ほど重大な意味を持つものはなかろう。しかしこれは、この四字の故ではなく、主として尚書臺の権限・機能に関わってのことであった。またかかる問題より発して、前漢の「領尚書事」の延長線上に、この「録尚書事」が位置づけられたことによる。
 この「録尚書事」とともに後漢の史料上、「參録尚書事」も散見され、結果的に、異なる機能を持つ、ないしは、前者に対して、後者が権限としては劣る、といった誤解が生じてもいる。
 周知の通り、「録尚書事」や「參録尚書事」は、上公・三公*1に附随する場合もあるもので、いわゆる冢宰の義であって、後代の如く、一種の称号として確立もしてはいない。
 今回指摘しておきたいのは、この四字の持つ制度上の意味ではなく、「録尚書事」、「參録尚書事」は本質的に意味の異なるものではない、とうい点である。この「參録尚書事」が見える場合、「與・・・參録尚書事」という形態をとっている。これは、結論から言えば、史料上の問題、すなわち、実際の制詔*2から核となる部分を抜粋したからに過ぎない。いつか例を挙げて確認してみよう。まず列傳五六「陳蕃傳」に、

  「夫民生樹君、使司牧之、必須良佐、以固王業。前太尉陳蕃、忠清直亮。其以蕃爲太傅、錄尚書事。」

との制詔が残っている。これは書式からして抜粋と思われる。范瞱ないしはそれに先行する『後漢書』の段階で、削り取ったものと思われる。この時の制詔と思われるものとして、『藝文類聚』卷四八・職官部四「録尚書」項、所引、應劭『漢官儀』にも残っており、そこには、

  故太尉陳蕃、忠亮謇諤、有不吐茹之節、司徒胡廣、敦德允元、五世從政、今以蕃爲太傅、與廣參錄尚書事。

と見えている。本傳に見える「夫民生樹君、使司牧之、必須良佐、以固王業。」は策書中の導入部の抜粋であろう。『漢官儀』の場合、この定型句に近い導入部は省かれている*3。制詔のスタイルはほぼ一貫しており、核心部分は、「官職・名前・状・其(今)以某爲某官」というものであった。この状に関する箇所は、両史料ともに削去の痕跡がある。おそらく「有不吐茹之節」の前には八字あったと思われ、最初の四字が、本傳にある「忠清直亮」、後半の四字が「謇諤」を含むものであったと思われる。実際、「忠亮」は「忠清直亮」を略したものであろう。なお制詔中にはよく「謇諤」の文字が見える。推測するに「謇謇諤諤」や「謇諤之節」といった文言であったのであろう。

 本題に戻して、本傳にみえる如く、あくまで当人の経歴を示す場合、同時期に、録尚書の権を有するものがあっても「録尚書事」と表記された。ただ基本的に太傅が置かれる場合や、三公が冢宰の義を行うのは、新たな皇帝がたった時期であり、同日同一の策書において行われる故、「與・・・參録尚書事」という表記をせねばならなかったにすぎない。
 ほぼ完全に近い策書・詔が残っている事例がいくつかあるが、一例、『後漢書』本紀三「章帝紀」永平十八年條をあげておこう。主要部分を抜粋つれば次の通りである。

  行太尉事節鄉侯憙三世在位、爲國元老。司空融典職六年、勤勞不怠。其以憙爲太傅、融爲太尉、並錄尚書事。

この史料に明かな如く、この段階ではまだ策文中に「參録尚書事」は使われず、同義として「並録尚書事」と見えているが如くである。沖帝期以降の策文では、「與・・・參録尚書事」となる。

 このように、「録尚書事」と「參録尚書事」には、本質的に差はなく、編纂段階において、元の史料=策書・制詔に忠実に切り取った結果、「參録尚書事」の文言が残ったに過ぎず、意味の上では、永平の策書にある如く、「參」には、「ともニ」といった意味があるに過ぎない。勿論、「尚書の事を録」する権限が一人にある際と、複数人にある際では、当然異なってはこようが。

 

 

 

後漢史料論序説」に入るかも知れないし、「後漢の三公府と尚書臺について」に入るかもしれない。もっと詳しい内容だけどね。

 

*1:太傅・大將軍・太尉・司徒・司空

*2:この場合、策書

*3:勿論、『漢官儀』には全文残っていたが、引用の合際、削去された可能性のほうが高い。