NAKAMOTO Keisuke "Daily"

日記的な。公的な研究テーマは官僚制、私的な研究テーマは汝南袁氏(轅濤塗から袁世凱まで)。歴史学と政治学・経済学の境界を彷徨うための準備期間中です。ここで書いてる小ネタは、十年前の卒論の際の小ネタメイン。

後漢官僚の一形態

後漢官僚の一形態

 後漢末、外任にあった官僚の中には、『後漢書』もしくは『三國志』、あるいはその両方に立傳されながらも、官歴のあやふやな者も多い。その理由はいくつか想定できるが、最大の理由は建安年間(おそらく最初期)に、許の獻帝もしくは荊州劉表と関係が薄かったもしくは、政治的に対立していたか否かによる。特に許における『東觀漢記』最後の修史事業において、私的な情報を提出できなかったことが大きいように思われる。

 こういった官歴があやふやな者の一人に陶謙がいる。とはいっても、ひどい例に比べれば、まだ恵まれた方であり、彼の最終的な地位及び本籍地の関係で、『東觀漢記』系統の史料とは別の形で、史料が残ることとなった。

 彼の経歴は後漢官僚の一端を見る上で興味深い。さっそく彼の官歴を確認してみよう。まずは史料を整理することからはじめよう。基本的史料となる『魏志』卷八「陶謙傳」においては、

「少好學、爲諸生。仕州邵、舉茂才、除盧令、遷幽州剌史、徵拜議郎。」

とみえている。「少くして・・・」「諸生」すなわち太學生もしくは私塾の門生となったという記事よりはじまる。その後「茂才に舉げられ、盧令に除せられ」たという。周知の通り、茂才に察舉された場合、ただちに千石の縣令にあてられる。したがって年齢的には概ね三十前後(三十以上)の者がこれに該当することとなる。

 『呉書』にしたがえば、彼の父の最終官歴は餘姚長であり、「少くして孤」というように、はやくに父を喪っている。同じく『呉書』に従えば同県の甘氏と通婚していたとはいえ、果たして州郡の官吏をつとめたという経歴のみで、茂才に察舉されうる政治的基盤を在地社会において有していたかというと、この点甚だ疑問ではある。

 一方、『三國志』や『後漢書』に引かれる『呉書』では、

「少察孝廉、拜尚書郎、除舒令。」

としている。これはこれで信頼できそうではあるが、例えば「少くして孝廉に察せらる」というのは明らかにおかしい。『呉書』は特に制度的記述において、いくつかの問題点が散見されることから、韋昭はおそらくこの手の知識に乏しかったのであろうか、あるいは呉の制度そのままに表現してしまったのか、その点詳らかにしえないが、こういった点をみると信頼性が揺らぐ。

孝廉に「少くして」察舉されたなどという部分はともかく、その後の経歴について言えば、『三國志』のそれよりは、ある程度現実味がある。後漢初期に待遇が改善されたとはいえ、「勞多く功少な」いと認識されていた尚書郎についているわけであるし、その後、縣令に任命されていることからもわかるように、おそらくは「羌胡の事を治」すことが職掌であった客曹郎と考えられる。すなわち、客曹郎に対する恩典、「劇もて遷せられしものは二千石 或は刺史、其の公もて遷せられしものは縣令と爲す」の公(=功滿=任期満了)による遷(=昇進人事)に該当する人事であったと思われる。この点、その後の官歴、幽州刺史であったり、関西の反乱に際しての人選をみるに、もっとも適当な官歴であったと考えられる。

実の所、この両史料に不備があるようで、『呉書』に引かれる張昭等の哀辭に「舒及び盧に令たり」とあることから、正確には、尚書郎として任期をつとめて舒令に遷せられ、一度官を辞し*1、その後、茂才に察舉され盧令となったと考えられる。そうすれば、茂才の察舉年齢としても、あるいは官歴の上でも妥当であるといえる。陶謙の没年から察するに、尚書郎であった頃は、はやくとも桓帝最末期から靈帝初、したがって茂才に察舉された年齢も、三十代前後というよりは、楊震の例の如く、四十前後であったのではないかとも思われる。

 ところで刺史人事において、この当時もっとも多かったパターンが、公府に辟召され公府掾となり、高第に舉げられて侍御史となり、そして刺史となるものであった。これを先例にならって「エリート・コース」とするならば、陶謙のそれはどのように位置づけることができるだろうか。結論からいえば、「準エリート・コース」ともいうべきものであったということである。例えれば公府に辟召され、掾ではなく、屬となるが如きものであったともいえよう。

 彼の場合、後の官歴に対して、決定的な意味を持つのは尚書郎、先に推測したように客曹郎への就任であったと思われる。桓・靈帝期とはいえ、なお六朝期の尚書郎などとは比べものにはならない官であり、一部に尚書郎より三公にまで至った者もいるが、彼らは当然、客曹郎などではないし、尚書郎より左右丞、尚書・・・と昇進していっていおり、これらの例とは大いに異なる。

 ただし、また一方で、和帝期以降、特に安帝期より顕在化する邊境問題に対応すべく、邊境の司令官人事において、その性質的に大きな変化もあったわけで、重要度の高いポストでもあった。当然、尚書郎には、公文書を作成するという「技術」が必要となり、その試験を通っているわけであるし、職務上、自然、邊境問題に対しては一定の知識を蓄積することができるわけである。その経験から、邊境の長官等に轉遷するわけであるが、必ずしも現場のたたき上げとはいえず、まさしく「準エリート」ともいうべきものであって、かかる層も、巨大な官僚制度が構築された古代国家においては、当然存在していたわけである。

*1:辞した理由が『呉書』にあるが如き理由であるのか、あるいは客曹郎