NAKAMOTO Keisuke "Daily"

日記的な。公的な研究テーマは官僚制、私的な研究テーマは汝南袁氏(轅濤塗から袁世凱まで)。歴史学と政治学・経済学の境界を彷徨うための準備期間中です。ここで書いてる小ネタは、十年前の卒論の際の小ネタメイン。

2015-01-01から1年間の記事一覧

汝南袁氏と弘農楊氏

汝南袁氏と弘農楊氏 ・四世三公 周知の通り、汝南袁氏と弘農楊氏とは「四世三公」など称される如く、四代にわたって宰相を輩出した家として知られる。一方で、この言葉だけが一人歩きして、実態とかけ離れた形での理解がなされてもきた。「四世三公」という…

參録尚書事

參録尚書事 「録尚書事」、後漢の官制史において、特に研究史の上で、この四字ほど重大な意味を持つものはなかろう。しかしこれは、この四字の故ではなく、主として尚書臺の権限・機能に関わってのことであった。またかかる問題より発して、前漢の「領尚書事…

南郡胡氏と建寧年間

南郡胡氏と建寧年間 胡廣、あるいは同姓同名の明の政治家を思い浮かべる人もあろうし、馮道の史評によって、その名を知る人もあろう。漢代史、あるいはより限定して後漢史以外では、その名・事績はほとんど知られていないのではないだろうか。もっとも、事績…

定策の功

定策の功 定策の功とは皇太子が立てられていない間に皇帝が崩御した際、その後継者を選定するにあたっての「功」である。あるいは近世などでは、基本的に皇太子が立てられた時点で、皇帝権力の弱体化を意味するため、死の直前まで立てられず、皇帝が死の直前…

大臣たちの死

大臣たちの死 ところで中平元年から二年にかけて、主要な官僚が次々と亡くなっている。先の記事にあるように、光和七年=中平元年には、 四月頃:張濟五月:橋玄 と亡くなっているし、続く二年には、 二月:劉寬十月:楊賜 と亡くなっている。「袁紹の父 袁…

中平元年

中平元年 中平元年は黄巾の乱がおこった年として広く知られている。この年は光和七年で、黄巾の主力が壊滅した段階で改元された。改元が行われたのは、十二月己巳、この月の朔は辛酉であるから、己巳は二九日であるから、実際に中平元年の元號が記された行政…

今日は何の日

周知の通り、『後漢書』本紀九「獻帝紀」や『後漢紀』巻二九「獻帝紀」建安七(202)年條に、 七年夏五月庚戌、袁紹薨。 と袁紹の命日が記されている。 かつて指摘した通り、彼の生沒年は本初元(146)年から建安七(202)年五月庚戌(二一日/6月28日)と考…