NAKAMOTO Keisuke "Daily"

日記的な。公的な研究テーマは官僚制、私的な研究テーマは汝南袁氏(轅濤塗から袁世凱まで)。歴史学と政治学・経済学の境界を彷徨うための準備期間中です。ここで書いてる小ネタは、十年前の卒論の際の小ネタメイン。

中平元年

中平元年

 中平元年は黄巾の乱がおこった年として広く知られている。この年は光和七年で、黄巾の主力が壊滅した段階で改元された。改元が行われたのは、十二月己巳、この月の朔は辛酉であるから、己巳は二九日であるから、実際に中平元年の元號が記された行政文書が用いられることはほとんどなかったであろう。この改元・大赦の詔において使用されていたことは確実ではあるが。

 ところで、この光和七年=中平元年には、重要な人物が何人か亡くなっている。

  享年七十五。光和七年夏五月甲寅、以太中大夫薨于京師。(『蔡中郎集』卷一「故太尉橋公廟碑」)

であったり、

  維光和七年、司徒袁公夫人馬氏薨、其十一月葬。(『蔡中郎集』卷十一「司徒袁公夫人馬氏碑銘」)

といった如くである。前者は橋玄、後者は時の司徒袁隗の妻馬倫である。その月日を見ればわかる通り、改元以前なので光和七年が用いられている。なお橋玄の碑は、中平二年以降、すなわち改元後に建立されており(おそらく馬倫の碑も同様に)、制詔ないしは、私的な記録文書に基づいて、そのまま光和七年が刻まれているわけである。
 ところで橋玄について、本傳では光和六年に卒したとしている。例えば中華書局の『後漢書』の校勘においては、同『蔡中郎集』卷一「西鼎銘」にある、光和元年、太尉に拜された際の「三讓」プロセスの記事において、「臣犬馬齒七十」とあることを以て、光和六年説をとっている。
 しかし『蔡中郎集』卷一「故太尉橋公廟碑」に、

  三孤故臣門人、相與述公之行。咨度禮則、文德銘于三鼎、武功勒于征鉞*1

と見えている如く、根拠としている「西鼎銘」も同時期に建立されたものであるから、「西鼎銘」は光和七年に亡くなったとの上での文章である。これは「故太尉橋公廟碑」や「太尉橋公碑」にある如く、光和七年=中平元年の死と考えるべきであろう。「臣犬馬齒七十」は光和七年の死としても一年の差しつかえないので、厳密に七十としているわけではなく、訓読においては「臣犬馬齒七十にならんとす」といった具合に読むべきものであって、光和六年生まれと断定する根拠としては乏しい。
 あるいは光和六年と范瞱ないしはそれに先行する『後漢書』の段階で光和六年と誤ったとするならば、この改元の事情と関係しているのかもしれない。

*1:三孤は三人の残された(存命の)子、故臣は故吏、門人は門生。