NAKAMOTO Keisuke "Daily"

日記的な。公的な研究テーマは官僚制、私的な研究テーマは汝南袁氏(轅濤塗から袁世凱まで)。歴史学と政治学・経済学の境界を彷徨うための準備期間中です。ここで書いてる小ネタは、十年前の卒論の際の小ネタメイン。

大臣たちの死

大臣たちの死

 ところで中平元年から二年にかけて、主要な官僚が次々と亡くなっている。先の記事にあるように、光和七年=中平元年には、

四月頃:張濟
五月:橋玄

と亡くなっているし、続く二年には、

二月:劉寬
十月:楊賜

と亡くなっている。「袁紹の父 袁成」という記事で触れたように、袁逢もこの頃までには亡くなっていた。

周知の通り、橋玄は靈帝期の大臣であるし、張濟・劉寬・楊賜は侍講、袁逢と楊賜とは國三老であり、その死後追贈を見ても、極めて優遇されていたことがわかる。彼らが立て続けに亡くなったインパクトは、こと中央に限って言えば、黄巾の比ではなかったであろう。

 なお本問題に関しては「後漢靈帝中平政治史試論」(投稿中)で触れている。 

 

続きはWebでの時代に、続きは紙媒体でとかね。

中平元年

中平元年

 中平元年は黄巾の乱がおこった年として広く知られている。この年は光和七年で、黄巾の主力が壊滅した段階で改元された。改元が行われたのは、十二月己巳、この月の朔は辛酉であるから、己巳は二九日であるから、実際に中平元年の元號が記された行政文書が用いられることはほとんどなかったであろう。この改元・大赦の詔において使用されていたことは確実ではあるが。

 ところで、この光和七年=中平元年には、重要な人物が何人か亡くなっている。

  享年七十五。光和七年夏五月甲寅、以太中大夫薨于京師。(『蔡中郎集』卷一「故太尉橋公廟碑」)

であったり、

  維光和七年、司徒袁公夫人馬氏薨、其十一月葬。(『蔡中郎集』卷十一「司徒袁公夫人馬氏碑銘」)

といった如くである。前者は橋玄、後者は時の司徒袁隗の妻馬倫である。その月日を見ればわかる通り、改元以前なので光和七年が用いられている。なお橋玄の碑は、中平二年以降、すなわち改元後に建立されており(おそらく馬倫の碑も同様に)、制詔ないしは、私的な記録文書に基づいて、そのまま光和七年が刻まれているわけである。
 ところで橋玄について、本傳では光和六年に卒したとしている。例えば中華書局の『後漢書』の校勘においては、同『蔡中郎集』卷一「西鼎銘」にある、光和元年、太尉に拜された際の「三讓」プロセスの記事において、「臣犬馬齒七十」とあることを以て、光和六年説をとっている。
 しかし『蔡中郎集』卷一「故太尉橋公廟碑」に、

  三孤故臣門人、相與述公之行。咨度禮則、文德銘于三鼎、武功勒于征鉞*1

と見えている如く、根拠としている「西鼎銘」も同時期に建立されたものであるから、「西鼎銘」は光和七年に亡くなったとの上での文章である。これは「故太尉橋公廟碑」や「太尉橋公碑」にある如く、光和七年=中平元年の死と考えるべきであろう。「臣犬馬齒七十」は光和七年の死としても一年の差しつかえないので、厳密に七十としているわけではなく、訓読においては「臣犬馬齒七十にならんとす」といった具合に読むべきものであって、光和六年生まれと断定する根拠としては乏しい。
 あるいは光和六年と范瞱ないしはそれに先行する『後漢書』の段階で光和六年と誤ったとするならば、この改元の事情と関係しているのかもしれない。

*1:三孤は三人の残された(存命の)子、故臣は故吏、門人は門生。

今日は何の日

周知の通り、『後漢書』本紀九「獻帝紀」や『後漢紀』巻二九「獻帝紀」建安七(202)年條に、

  七年夏五月庚戌、袁紹薨。

 と袁紹の命日が記されている。

 かつて指摘した通り、彼の生沒年は本初元(146)年から建安七(202)年五月庚戌(二一日/6月28日)と考えられる*1

 

 

 

 今日は、袁紹の没後1813年。なお、また6月28日も偲ぶ記事を書きたいですね。ところその翌日、6月29日はラファエル・クーベリック(Rafael Jeroným Kubelík:6.29, 1914-8.11, 1996)の誕生日ですね。

 ところで某論文では、わざわざ本初元年のところに丙戌とまでいれてるのはね、あたしが戌年で、同じ戌年だよっていうアピールをしたかったからなんですよ。

*1:〔2013〕「汝南袁氏に関する二・三の問題」『三國志研究』8